バケモノたちが嘯く頃に【感想・レビュー】
どうも、にまめです。今回は、『バケモノたちが嘯く頃に~バケモノ姫の家庭教師~』の感想を語っていきたいと思います。
※ネタバレが多分に含まれます。ご注意ください。
周りとは違うから
『ひぐらしのなく頃に』で有名な竜騎士07が描くサスペンスミステリーもの。キャラ小説としての体裁とグロサスペンスの世界観が見事に調和した素晴らしい作品だったと思います。
タイトルにもあり、作中でも幾度となく登場する”バケモノ”というワード。とても印象に残りますよね。作中に登場したほとんどのキャラクターはバケモノだったわけですし、この作品を読まれた方々なら読後一番頭に残っている言葉を挙げろと言われたらバケモノと答えるでしょう。
そう、バケモノなのです。(あ、長くなります)
この作品のテーマは非常にわかりやすく、それを読者に伝える力があったと思います。それでいて、物語として非常に面白かったので、僕は素晴らしい作品だったと思います。
ここから下は「いや、あとがきにも書いてあったし、わかってるよ!」と言いたくなる内容かもしれませんが一応言葉にして語っておきたいのでお付き合いください。
「……うん。元々、人は誰だって胸の中にバケモノの卵を持っている。だから、決して多くはないけれど、人と社会がが存在する限り、必ず生まれ続ける……」
これは、物語終盤での磊一のセリフですが、とても重要な一言だったと思います。作中で出てきたバケモノたちはみんな猟奇的で過激なキャラクターを持っていましたが、言ってみればバケモノとは、周りとは異なる思考・感性を持った人間のことでした。
多くはないでしょうが、そのことに悩みを持つ人はいるのではないでしょうか。自分の好きな趣味が周囲に認められない、将来の夢が理解されない、自分の行動が否定される……そんな悩みが。
周りにそれが理解されないことに自覚的でそれに思い悩んでいる人々。バケモノの卵とは、つまりこのことなんだろうと僕は思います。
周囲からの否定や抑圧。醸成された悩みはとても脆いことでしょう。磊一が父親に殴られたときのように、その悩みに自分が耐えきれなくなる瞬間がきます。そんなとき、バケモノが誕生してしまうのです。周りが強く否定するのを理解しながらも、そんなことお構いなしに自分のやりたいようにやる。聞こえはいいですが、実際には自ら孤独を選ぶということにほかならず、それは社会の中で生きなければならない人間にとってはひどく辛いことです。
だから、バケモノという表現は言いえて妙だと思うのです。どれだけ謗られようと周りとは違う存在になるという意思と自虐のこもったメタファーですよね。
じゃあ、バケモノかっこいい、という話なのかと言うとそういうわけではありません。これは、バケモノである自分を受け入れるという話なのです。
磊一と茉莉花がいい対比ですが、バケモノにも種類がいました。大きく分ければ、社会に迎合できるか否かといったところでしょうか。
しかし、総じてバケモノであることには変わりません。磊一も言っていたように、胸の内にあるバケモノはどうあっても変わることはないのです。しかし、社会と折り合いをつけることはできます。
茉莉花ははじめ、磊一を試しました。それは社会に対する反発を意味します。しかし、磊一は自分は同類だと語り、バケモノであることは悪いことではないと教えます。結果、茉莉花は使用人とコミュニケーションをとっておめかしをしたり、最後にはマダムやメアリーとも当たり前に会話して見せたのです。そう、社会としっかり繋がっていたのです。
大事なのは、彼女のバケモノは何も変わっていないということ。変わったのは、そのことを受け入れられたか否か。茉莉花の場合、磊一を通して自分の存在を認めることができ、再び社会に戻ることができたのです。
社会の一員として受け入れられることは、心の安定につながる。それは茉莉花を見ていれば、よくわかると思います。
自分の周囲とのギャップをどう埋めるか。自分がバケモノになったとき、その自分を受け入れられるか。
そしてなにより、バケモノを抱えた人がいたとき、あなたはそれを受け止めてあげられるか。
そんなテーマがミステリチックな展開と練りこまれた世界観の中で芯として立っており、とても面白い内容になっていました。
最後に
思ったより評価が低かったので思わず熱くなって書いてしまいました。まだ書き足りないくらいですし、感想っていうよりメタ的な話になってしまいましたが、物語として純粋に、本当に面白かったのでまだ読んでなくて興味のある方はぜひ。
『ひぐらし』よりおもろいかって言われるといろいろ比べるのが難しいのでなんとも言えませんね。